May 22.2011
若さのカタルシス
ボランティアによって得られる「する側」のカタルシスについて。
「受ける側」が置き去りになっているという批判もある。
ボランティアすることにより、社会貢献という満足度とそこでの出会い。
そういった物のなかで、受ける側が置き去りになっているというのだ。
だけど、そういった意見がボランティアの敷居を高くし、
気軽な参加を拒む要因なのでは?
私も実際に参加してみるまで、おっかなびっくりだった。
それだけ特殊な世界になってしまっているのかもしれない。
だけど実際参加してみて、楽しいし面白い出会いも沢山あった。
だけど被災者の方が置き去りになっているとは思わない。
家族を亡くした方の前で、笑いもするし、冗談も言う。
だけどそれが不謹慎だと思わない。
当然配慮は必要だが、普通でいいんじゃないかと思う。
普通で居ることが、私たちが出来る最大の配慮では?
作業が終わった後に被災地を見に行った。
不謹慎だなんて考えるのはやめた。
自分が実際に見に行くことが大切だ。
そして多くの人が、実際に自分の目で見て感じて、
それでどうすればいいかを考えればいいと思った。
ボランティアに参加したメンバーが集う、
というより入浴しに来る日帰り温泉(ニセモノの温泉だが凄く暖まる)で、
みんなといろいろ話す。
(仲良くなった二人。奈良の椎茸農家の岡本さんと会津若松の加藤さん)
全員に共通しているのは、じっとしていられなくて来ちゃった!という所。
ある人は仕事を2週間休んじゃったり。
信州大学のヒッチハイク部(!?)の学生はヒッチハイクをしながら。
西本願寺のボランティアチームもいました。
放射能がどうだってあんまり関係ない。
というか、きちんと予防をしながら。
心配なら誰かしらが持っているガイガーカウンタをチェックしながら。
保健所でスクリーニングしながら。
(私の体の数値は最大0.3マイクロシーベルトだった。
手前のプリウスの会津若松の加藤さんに誘われて来てみた。)
若さのカタルシスは批判されるべきではない。
ボランティアに参加することによって、私たちが救われているのは明らか。
お手伝いすることによって、私たちががんばれって言われている気がした。
「がんばれ!」って言いに行って「がんばれって言われて」
沢山エネルギーをもらって帰って来た。
でもそれでいいじゃないか!と思った。
そのエネルギーはまた別の形で、被災地へと転嫁されていくに決まっている。
そうやって、もらって、与えて、その繰り返しで
私たちみんなで生きて行けばいいと思う。