海辺の町。初夏の光線。
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海辺の町へ行って来た。そこには初夏の光線があった。
そこで初めてボランティアをした。
今日はひとまず放射能の話は忘れよう。

連休の最後。南相馬市へ災害ボランティアに出かけた。
どうやって行けばいいのか?どんな状態なのかも判らずに出かけてみた。
しかし到着してみたら、そこには普通の町と普通の生活があった。
藤沢とよく似た海辺の町だった。

コンビニはやっている。GSはやっている。
ビジネスホテルも、日帰り温泉もやっている。
通りには女子高生が歩いている。
ボランティアセンターの若いスタッフは可愛かった。

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ところで2日間のボランティア。
いろんな人に出会って楽しかった。

上の写真はキャンピングカーで震災直後から
東北の被災地をボランティアしながら南下して、
南相馬にたどり着いた北海道門別のおじさんのブログから拝借。
(この中に私が居ます。ウォーリーを探せ!)


初日。ボランティアセンターで登録後、控え室でマッチングを待っている間
一体どんな人が来ているのだろう?と辺りを観察してみる。
意外と若い人が多い。年配者も多い。若い女性が多い。
そんななか、ひときわチャラい3人組の男の子達が目についた。
いかにもダルそうに浅くパイプ椅子に座っている。

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今日はがれき撤去・片付けの仕事に登録していたのだが、
派遣されるお宅が決まったときに、
偶然にもその三人組と同じグループに配属された。

今日伺うお家はかなり広いお家だということで、2グループ12人が派遣され、
私は軽トラックの運転が出来るので、資材を積んだトラックを運転して
海辺の被災地域のそのお宅に向かった。

チャラい男の子の一人はグループリーダーに自ら立候補し、
現場を仕切った。他の二人も凄く良く働いた。
私は、体力の無さを効率で補おうと、いろいろなやり方を試してみた。
基本みんながボランティア。しっかりとした指揮系統は無いが、
微妙なバランスでみんながよく働く。
やり方はバラバラだけど、みんなの目的を共有している。
ボランティアってこういうものなのか?
何だか気持ちいいこの感覚。学園祭の準備に燃えた時のような感覚。
利害の全く無いうえに、みんなが共有できるゴールが明確である。
「ああ、ボランティアって楽しい!」と午前中のうちには、心の中でつぶやいていた。

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しかし仕事は、肉体的にはハードである。
ヘドロの粉塵を防ぐために、長袖のシャツと防塵マスク、
防塵ゴーグルを着用しながらの作業。

お昼休みの頃にはくたくたになってしまった。
昼休みは、各々が自分で用意した食事を採る。ほとんどのメンバーはコンビニのおむすびやサンドイッチを買ってくる。(南相馬のコンビには普通にやっています)

でも、そんなコンビニ食でもこんなにご飯がおいしいのか!と実感できる。
体を動かす仕事は大事ですね。
チャラ男達三人は、三人で一斤の食パンをとジャムを買って来てそれを三人で分けていた。
ジャムはストロベリーとピーナッツ。
しかし、そのうちの一人がストロベリージャムを丸ごと全部食パンに乗せて食べてしまった。「なんだよ〜残り全部ピーナッツじゃねーかよ〜」と軽く内輪もめする。

ボランティアスタッフは、派遣先のお宅からのお茶や食べ物をもらってはいけないという決まりがある。しかしそんな不憫な若者を見かねた、その家の娘さんが缶コーヒーをどうぞと差し入れしてくれた。
「いいえ、俺ら禁止されてますんで」リーダーのチャラ男が断る。
「いいのよ、私たち板橋から今日駆けつけて、今日板橋から持って来たコーヒーだから。」
「え?板橋からっすか?だったらいいっすかね?」
「良かったらこれも食べる?途中買って来たんだけど食べきれなくて」
そういってメロンパンを若者達に差し出した。
「これも板橋からっすか?だったらいいっすかね?」



そんな若者が微笑ましい。この若者達は東京の大学生やフリーター達で、
ほとんど無計画に東京から一直線に南相馬を目指して来たらしい。
途中常磐自動車道は通行止めで、原発を迂回するように20km圏内や10km圏内近くまでを
意図せず、出たり入ったり。追い返されたりしながら夜通し走り。
ようやく南相馬にたどり着いたらしい。
そしてサッカー場にテントを張り、ボランティア活動を続けているらしい。
チャラいけどエラい。

昔、東南アジアを無計画で旅したことがある。
武装した共産ゲリラと同じバスに乗り合わせたこともある。
危機管理という考え方からすると無頓着だけど。
刺激以上の「何か」がそこにあったと思う。

彼らにしてみればそういった感覚なのかもしれない。
40歳を超えた自分には到底かなわないし、そんなことが少しうらやましくも思う。
だけど、そんな彼らの情熱を受け止められるだけの世の中を、
私たちが作って行く努力をしなければ行けないと思った。

何も見ず、避けて通っては行けないと思い
被災地であり、原発事故の被害地である南相馬へ来た。
見えない物が一番怖い。それは放射能も人の噂も同じ。

南相馬が危険なわけでは、決して無い。