January 4.2011
ノルウェイの森
昨年の10月頃、観に行った映画の前の予告編で
映画「ノルウェイの森」の予告編を見た。そして号泣してしまった。
ああ、これはやばいと思いつつ公開が待ち遠しかった。
だけど、内心どうしよう・・と言う想いもあった。
何だか自分の心の一番敏感な部分に触れてしまいそうな予感があった。
なので、映画を見るのが怖かったし、出来れば平日の昼間かなんかに
一人でひっそりと観たかった。
そういいつつも、みんなに観に行くことを公言してしまっていたし、
かみさんと一緒に観に行くことになって、内心ドキドキ。
ハンカチをポケットに忍ばせて観に行くことにしました。
だけど映画が始まってすぐに、トラン・アン・ユン監督は
見事に私の期待を裏切ってくれたことに気付く。
私の嘆美で安易なノスタルジックなどどこかへ吹き飛ばすほどの、
圧倒的な「映画力」で、その森の奥深くの世界へ私たちを誘う。
誰もがこの年頃に一度は迷い込んでしまう深い森の中の話。
人ぞれぞれ複雑な事情は、大なり小なりいろいろあると思う。
しかしあらゆることに誠実であろうとすればするほど、森の奥深くへ迷い込んでしまう。
そうならないように、だんだん人は力の抜き方加減を覚えていくのだろうか。
それが大人になるということならば、僕は永遠に森の中を彷徨い続けたい。
なんて尾崎豊だったら言うのかな?彼は死んでしまったが・・。
音楽はRadioheadのジョニー・グリーンウッドがCANやThe Doorsの音楽をセレクトして起用している。特にCANは70年代の伝説の実験音楽グループ。
どちらのサウンドも森の奥深くを表現するようなサウンドである。
そしてその合間を、菊池凛子の「直子」のささやきと水原希子の「緑」のささやきが、
天国と現実の狭間を行き来するように交錯する。
トラン・アン・ユン監督は松山ケンイチ演じる「ワタナベ」を、
いとも容易く森の一番奥深くまで引きずり込む。
映画の佳境で、直子が死に向かって突き進んでいく中、
森の植物の刺のクローズアップをカットアップで多用するシーンがある。
「ワタナベ」が自分でバイトでけがをした手の平の抜糸するシーンだ。
私にとっては、このシーンがこの映画を象徴する最も印象的なシーンとして写った。
ある意味死は耽美である。死の誘惑を振りほどき生きていくことの辛さを、
身をもって表現するシーンだったと思う。
この類いのリアリティーは村上春樹が意図したものとは対局だったはずだ。
しかしそれがこの映画が、トラン・アン・ユンの「ノルウェイの森」であるという所以である。
少なくとも私が若い頃の感傷に浸ってみる類いの映画ではないということ。
そして、映画の途中では一切ハンカチは必要ではなかったということ。
しかし最後の最後。やっぱり泣いちゃった。
ビートルズの「ノルウェイの森」のイントロがかかった瞬間。
パブロフのの犬だね。全く。
恥ずかしくてしばらく席を立てなかった・・・。
実際はこんな歌詞の曲なんだけどね。意味深いが・・。
(Norwegian Woodはノルウェー製の家具の意味らしい。安物の象徴。)
<Norwegian Wood〜ノルウェイの森>
あるとき 女を引っかけた
いや こっちが引っかけられたのか
彼女は僕を部屋に招いた
ノルウェーの森にいるようだぜ
泊まっていってと彼女は言い
好きなところにすわるよう僕を促した
そこで 僕は部屋を見まわし
椅子がひとつもないのに気づいた
敷物の上に腰をおろし
ワインを飲みながら時間をつぶすうち
すっかり話しこんで2時になった
すると彼女 ”もう寝なくちゃ”
朝から仕事があると言って
彼女はおかしそうに笑った
こっちは暇だと言ってみても始まらず
僕はしかたなく風呂で寝ることにした
翌朝 目が覚めると僕ひとり
かわいい小鳥は飛んでいってしまった
僕は暖炉に火を入れた
ノルウェーの森にいるようだぜ